カイロタイムズ098号
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(8)2014年8月1日発行 カイロタイムズ 98号1970年代にNHKで放送されていた「刑事コロンボ」が現在BSで放映されています。もちろん映像に時代は感じますが、大仕掛けで展開も早い最近のドラマと比べても、ストーリーの面白さは遜色ありません。さて、先日の放送『秒読みの殺人』の中で、「カイロプラクター」に診てもらったと言っているコロンボのセリフの字幕が「骨接ぎ」となっていました。NHKに確認したところ、字幕・吹替は昔の放送時のままだそうです。当時は「カイロプラクター」と言っても一般の人には理解されなかったのですね。40年経った今、この職業は広く認知されるようになりましたが、まだ十分とは言えません。2019年のWFC世界大会が、業界を盛り上げるとともに、対外的にも認知度向上の起爆剤となるといいと思います。編集後記カイロタイムズでは、皆様からの寄稿や情報提供を募集しております。カイロタイムズ送付のお申込み、ご住所の変更などは、ご住所・お名前・お電話番号明記の上、FAXもしくはメールにてお知らせください。〒160-0023東京都新宿区西新宿3-1-5新宿嘉泉ビル8FTEL0120-223-505 FAX0120-223-509E-mail:info@chiro-times.co.jp日本医科学出販株式会社 カイロタイムズ編集部 整骨院での修業時代、私は整復術や包帯法に魅了されており、そのままいけば、柔道整復師の道を歩んでいたでしょう。しかし、その頃、時代は転換期を迎え、急性外傷の患者さんの多くが、整形外科病院を受診するようになってきました。整骨院に来院される外傷の患者さんは徐々に減り、慢性症状を抱えている患者さんが増えてきていました。この先、本来の柔整の業務とは異なる、慢性症状の患者さんたちが多くなるという、未来への職業的な不安も芽生えていました。 そんな状況の中で、私の手技療法への関心はさらに高まり、急性腰痛や寝違え、さらには慢性症状の患者さんを、骨折や脱臼を治療する整復術のような手技療法で治せないだろうかと模索していました。その整骨院では、大きな研究会を主催しており、研究発表の花形は、やはり本来の柔道整復師の業務である骨折や脱臼の症例報告でした。そこで修行している書生や先輩方には、「ほねつぎ」としては一流の整復術や包帯法を習得し、一流の研究をしているという自負がありました。 一方、骨折や脱臼以外の捻挫や打撲の症例においては、部位別に、冷シップをし、包帯で固定するのが「お決まりの治療法」でした。また、慢性腰痛などは、患部に低周波をあてながら温シップ、次に自家製の軟膏をすりこむようにほぐし、最後にもう一度、赤外線などの電気療法を施していました。 多くの患者さんはこの治療で癒され、満足して帰られました。今考えると、施術だけではない、整骨院の雰囲気や院長の人間味が反映されていたのでしょう。だからこそ、院の評判がよく、大勢の患者さんが訪れていたのだと思います。 しかし、慢性症状に対しては「治す治療」というよりも、いわゆる「対症療法」でした。なぜ効果があるのか、なかったのかという本質の理解には関心が向けられていませんでした。 その当時の私の関心事は「慢性症状をいかにして手技療法で治すか」ということ。現在目指している「本質的治療」とはまだまだかけ離れていました。 (次号に続く)保井 志之 D.C.保井志之D.C.手技療法を極めたいという思い(2) 12年間に及ぶ世界カイロプラクティック連合(WFC)役員在任中、カイロプラクティックの国際的発展の過程で、面白い経験やわくわくする出来事が数多くあった。 1962年には国際的カイロプラクティック団体の組織に向け、初期の試みがあった。主に、スイス人カイロプラクター、フレッド・イリー氏とカナダ人カイロプラクター、ドナルド・サザーランド氏により精力的にこの動きは進められた。残念なことに、諸々の事情により、シュネーブ(1962年)とモントリオール(1967年)での2つの会議の後、主だったカイロプラクティック団体間のやり取りは何年にも渡って途絶え、国際的団体の件は中断されてしまった。 1986年ラスベガスで、国際カイロプラクター協会(ICA)と米国カイロプラクティック協会(ACA)の統一を目指した歴史的会議が行われた。その期間中、国際的団体設立の考えに刺激された5名による話し合いが持たれたが、決裂した。翌年、豪州カイロプラクター協会会長ミリアム・ミンティ氏が、ロンドンでの国際会議における各団体代表者のミーティングの席上にて連合の設立を動議した。1988年、シドニーでの42名の団体代表者による2回目のミーティングにおいて、ついに国際団体の設立が実現した。 1987年とWFC設立後の数年は形成期だった。WFCの価値を国際的に認知してもらい、法的枠組みや組織図、会員制度を整えることに努めた。しばらくの間は、組織の維持に必要な資金の安定的確保が大きな課題だった。ロンドンとシドニーでの国際会議はどちらも大きな行事であり、その後の会議や会合で同様の質を維持することがWFCにとっての課題ともなった。 1991年トロントでの第1回WFC会議の際、クリストフ・ディエム氏と私は、JCAおよびDCLCの代表者と、日本のWFC団体を決定するために長時間話し合った。この結果、CCJが結成された。残念なことにこの決定は解決策とはならず、1997年の東京でのミーティング後、JACが日本代表団体となった。 (次号に続く)訂正とお詫び97号内本記事【誤】WFC初代会長 ジョン・スウィニーDC【正】WFC第三代会長 ジョン・スウィニーDCWFCの設立①(2)元WFC会長 ジョン・スウィニーDC

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