カイロタイムズ118号
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(5)2019年8月19日発行 カイロタイムズ 118号 先回、ACAのX線写真撮影に関する反カイロプラクティック的な指針に対して、国際カイロプラクターズ協会(ICA)などの業界団体や大学が拒否をしたことを紹介しましたが、2019年5月1日付で国際カイロプラクターズ協会が国際カイロプラクティック連盟(WFC)に対してWFCの所属団体として正式に不服申し立てを行ったと発表しています。 それは、WFCがサブラクセーションを否定するような表明をしたからです。 サブラクセーションはカイロプラクティック専門職にとって金科玉条と言える最も大切にして守らなければならない重要なカイロプラクティック独自の理論です。 それを否定することは、カイロプラクティックの哲学を否定することに繋がり、カイロプラクティックそのものを否定することになります。 カイロプラクターがサブラクセーションを取り除くことを目的とせず、その他の企図によって脊柱にマニュピレーションを行うのなら、それはオステオパスやフィジカルセラピスト(理学療法士)によるマニュピレーションや整体師による矯正との違いが明瞭ではなくなります。 カイロプラクティックの三位一体である哲学・科学・芸術に基づき、それらに準ずる方法でサブラクセーションを見つけて、それを取り除くために素手によってアジャストすることがカイロプラクティックであり、その中心をなすサブラクセーションを否定してはカイロプラクティックは成立せず、もはや存在理由がなくなります。 カイロプラクティックの名の下で、鍼治療、ホットパックなどの温熱治療、低周波などの電気療法、マッサージなどの他の治療法などを施すミキサーと呼ばれるDCも少なくないのが現状です。そういった東洋医学の鍼、西洋医学の理学療法、マッサージなどとゴチャ混ぜな臨床を患者に提供し、それがカイロプラクティックであるかのようにウェブサイト等で情報発信するミキサーたちによって、患者はカイロプラクティックが何であるのかを正しく理解することが出来ず、カイロプラクティックの独自性は混乱し、やがて崩壊してしまいます。 かつてオステオパシーという専門職が存在しましたが、やはり創始者のスティルDO、MDの哲学を蔑ろにし、技量の研鑽より目先の症状軽減を重要視したDO達によって薬の導入を許し、その後は外科手術も導入し、ついにはMDと同様に医業を臨床するようになり、完全に同化してカイロの存在意義⑤松下 順彦DCその独自性を消失してしまいました。 今日でも、ごく僅かなDOたちが手技を継承・臨床してはいますが、専門職としては有名無実と言える状態です。 米国では専門職ごとに保健請求などで用いる診断及び医療処置コードを編集した冊子が販売されていますが、内科、皮膚科、整形外科、理学療法科など専門別に冊子が作られています。 カイロプラクティックの冊子もあり、M99・11頚椎サブラクセーションといった診断コードや98940アジャストメント脊柱1〜2部位という処置コード等のカイロプラクターがよく用いるコードが冊子に編集されています。 しかしオステオパシーという専門の冊子はありません。西洋医学と同化し医師(MD)と同じ診療をしているのだから、医師と同じコードを使うわけであり、別の専門冊子は不要です。 したがって、カイロプラクティックもマニピュレーションを行い、理学療法・運動療法ばかりを提供するようになれば、遠からずカイロプラクティックという専門職用の冊子も不要になり、オステオパシーと同じ轍を踏むことになるでしょう。 オステオパシーはMDに準ずる形でドクターとして医学を業としていますが、カイロプラクティックは理学療法に吸収されてしまう可能性すら否定できません。 米国でオステオパシー、ホメオパシー、ナチュロパシー等の医療が西洋医学から攻撃されて事実上壊滅し、独立を守ったのはカイロプラクティックだけであるということを歴史から学び、守り続けなければなりません。Vol.上村 高史DC こんにちは!もう8年前になりますが今回お話しする男性の方は3歳の時にソファーから落ちて頭を強打し頚椎C1、C2を骨折しました。幸いにも脊髄損傷は無く麻痺、発育障害もおきませんでした。現在彼は39歳。私のところに来たのは手の痺れ、首の痛みと肩の異常な張りで毎日困っているとのこと。 仕事は基本デスクワークでPCを主に使用されています。出張も多く東京と県外にも会社を持っているそうで隔週で新幹線、飛行機、船などで移動している方でした。 首の痛みで以前から整形外科クリニックに行かれていたようですが、レントゲンを撮って言われたのは、古傷の影響なので痛み止めと湿布の処方でまた1か月後来て下さいと言うことでしたが、1か月経過しても変化なしで首、肩の痛みが続いて眠れず整形外科に再度診察に行ったが痛み止めで経過をみましょうと言われ、このままではダメだと思いご友人の紹介で当院に来られました。 レントゲンを撮ってビックリしたのを覚えていますが頚椎C1、C2が針金で留められていて骨化が進み頚椎C1〜C3までの骨が関節の隙間なく一つの骨になっています。腸骨と肩の骨を頚椎に移植されていたので本人からその腸骨部分が痛いと言われたのが分からなかったですが、レントゲンを見て納得しました。採られた腸骨が片方だけ幅が狭く薄く切れています。当時3歳の幼児でも腸骨を採取されて頚椎に埋め込まれるとはちょっと痛々しい感じでした。その傷ももちろん残っています。腸骨稜部分に痛みが出ているのは成長して大人になっても思ったほど、骨形成の段階で大きくならなかったので筋肉が反対側の臀筋と比較して着いていないのと、手術後の瘢痕組織部分が硬くなって痛みが残っています。 頚椎C1/C2の骨折した部分にその腸骨を入れて固定された期間が長かったのでC1〜C3が一つの椎骨になってしまったわけです。触診を幼少期骨折の症例 前編DrDrムウエムムウエムララののリアリリア床ダイアリー臨床ダイアリDr ウエムラの臨床ダイアリーVol.14上村高史DC、  ICCSPしても3個の骨が同時に動いている感覚です。 動物のキリンでもあれだけ首が長いのに一つ一つの頚椎は大きく長いですが7個で形成されています。先日上野にある国立博物館で、動物の本物の骨格が丁度展示してあり確認するために見てきましたが、キリンの頚椎は竹のように長く一つ一つの椎体も他の動物の頚椎の形と明らかに違いました。これは見る価値ありです。 もし関節、椎間板がなければ可動域は勿論狭くなります。この患者さんも上部頚椎3つが一つになっていますので想像通り頚椎の左右差の回旋、屈曲、伸転の全てにおいて通常ではないわけです。ラッキーなのは麻痺等が出ていないこと。 上部頚椎の先生はこういうケースはどうするのかな?って、思ったりもしました。 ただ固定されていてもアジャストの仕方で圧が少なければ、そこにサブラクセーションがあればそこにアプローチ出来るかもしれません。 レントゲン写真は本人に許可をとって記載しています。 もう一つ大きい長い写真はキリンの頚椎です。 次回はその検査後どうしたのか、またその彼の人生にどんな変化が起きたのかお話ししたいと思います。 ハインリッヒ・マッセイMDとの論争がもとで仕組まれたと言われるH.H.ライリングの訴訟は1901年1月15日に却下されたのだが、訴追と民事訴訟の恐れがD.D.パーマー(以下、D.D.)の心に載し掛かっていたのは明らかで、D.D.の心理状態が彼の行動に現れてくるようなのだ。 B.J.パーマー(以下、B.J.)は、学位を授与される前からアイオワ、ミシガン、ウェスト・バージニアの各州でカイロプラクティックの臨床に関わっていたが、1902年1月6日の卒業を機に父親の学校兼併設治療所で臨床に携わった僅か3カ月後の4月16日、医療免許無しに治療するとか治すとか主張した咎で起訴された。 B.J.が法的闘争に晒されている最中のこの時期、驚いたことに、D.D.は自分の身の周りを全て片付けてアイオワ州を後にするのだ。D.D.は同様の法的処置が自分自身にも及ぶことを恐れたのかもしれないが、Thomas H. Storey, DC(以下、ストアレイ)の家族から緊急のメッセージが入っていたのだ。ストアレイは初期の卒業生の1人であり、突然の失踪なので、家族がストアレイの捜索を頼んできたのだった。 1902年5月、借金まみ中垣 光市DCれのパーマースクールと併設治療所の指揮を任されたのは、創始者の息子、B.J.だった。僅か数ヶ月前に父親からカイロプラクティックの卒業証書を授与されたばかりで経験不足だった若いB.J.を満悦と悲痛の日々がこれから訪れるのだが、短期間で特別な才能の兆しがみられた。21歳にも満たなかったB.J.は、彼の父親への徒弟奉公の産物であったばかりか、旅回りの演芸催眠術ショーを運営していたハーバート・フリント教授の兄弟分であった。B.J.はD.D.が留守にしている施設の「マネージャー」として統治を掌握し、ビジネスの為の融資を集めて、数年で学校の経営を黒字に戻したのだ。 B.J.がパーマースクールの運営を掌握する一方、1902年6月にD.D.はアイオワ州ダベンポートを去る。1904年頃のB.J.の記述によると一年半程前の1902年にD.D.がストアレーの精神異常を治療にパサデナに向かったことが確認できる。ダべンポートから数日掛けてカリフォルニア州パサデナにD.D.は到着する。 友人で弟子のストアレイが精神障害を患っているので、捜し出して助けるというのが表面上の理由だったが、D.D.がダべンポートを立ち去った本当の理由は、アイオワ州における法的並びに経済的な困難ともっと深い関係があっただろうと思われるので、すぐにカリフォルニア州でもD.D.が法的問題に直面するのは皮肉なことだ。 B.J.が無免許医療で訴えられているときに、D.D.は親として我が子に精神的なサポートを与えないばかりか、自分自身へのとばっちりを恐れてアイオワ州を去ったのだとすれば、投獄された経験のあるD.D.にとって告発や訴訟の法的問題は避けたかったのだろうが、親子の愛情の機微に疑問が湧く。 D.D.は遂にストアレイを見つけ出し、その後、D.D.はパサデナを去って、カリフォルニア州サンタバーバラにカイロプラクティックカレッジを設立する。オークリー・スミスDC(後にナプラパシーを創設)とミノラ・パックスソンDC(初の女性カイロプラクター)が教員としてD.D.に合流した。しかし、1903年11月中旬にカリフォルニア州医療審査委員会から法廷に提出された「無免許医療」の告発に圧力を感じてD.D.はサンタバーバラを去った。 1903年の暮にダべンポートに戻ったD.D.は、若さと経験不足の理由でパーマースクールの留守を預からざるを得なかったB.J.と学校に関して同等合資会社の契約を結び、それは1906年5月まで至る。 さて、D.D.の出奔を止むなくしたストアレイの突然の失踪の原因である精神異常はどうなったのか、謎は深まる。この続きは次号のお楽しみに。 これまでの「カイロプラクティックの歴史」コラムは、カイロタイムズHP内でご確認できます。カイロプラクティックの歴史(第13回)カイロプラクティックの歴史(第13回)中 垣 光 市 DC争いの余波

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