カイロタイムズ117号(高解像度)
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(4)2019年5月20日発行 カイロタイムズ 117号 カイロプラクティック、あるいはその他の施術法を科学的に検証するために最低限必要なことは、何らかの方法で測定できること。そして、その測定には再現性があり、定量的に示されることなどが求められます。カイロプラクティックを科学するために、尽力を注いだ歴史に残る貢献者がいます。それはDCとMDの両方の学位を保持しているスコット・ホルドマンDC、MD、PhDです。彼は、1された条件下で、特定の施術手順が一貫した臨床結果を示さなければならない」と述べています。この基準はカイロプラクティックのみならず医学領域においてもとても難しい基準だと思います。例えば、腰痛症状においても様々な種類の腰痛がありますし、研究の被験者を同じ生活環境の条件下で制御するのはとても困難です。 また、特定の施術手順を制御する場合、医学であれば同じ薬剤を投与することができますが、カイロプラクティックの場合、一貫した同じ施術(アジャストメント)を行うことが求められます。もしも、手で直接スラストする場合、同じ力、同じスピード、さらには同じ振動周波数で行うのはとても困難です。電動アクティベータ器でスラストする場合はボタンを押すだけでスラスト振動が繰り出され、スラスト自体においては一貫性がありますので、その点は制御できますが、アクティベータ器による調整でさえも、身体にコンタクトする人の手技によって異なります。 スラストのスピードや力は同じでもコンタクト部位、スラストの方向、最近ではコンタクト保持時間なども神経受容器へ及ぼす影響が異なることがわかってきていますので、コンタクトする施術者には一貫した技術が求められます。それを手で直接コンタクトしてアジャストする場合にはさらなる一貫した技術が求められるでしょう。特定の治療法で特定の症状に対して効果があるか否かをリサーチする場合、一貫性のある技術を制御するのは不可能に近いのかもしれません。 さらに、臨床現場において、977年、当時カイロプラクティックの研究が乏しい時代に全体的な視座にたって、カイロプラクティックの研究論文を掲載するように依頼されました。 当時、彼は研究のための4つの評価基準を示してくれました。その4つの評価基準は現在でも使われています。一つ目の基準は、「特定の病理学的プロセス、臓器機能不全、または症状などへの複合した身体への治療において、制御AMリサーチに関して②保 井 志 之 DCVol.19単に肉体面だけでのアプローチで効果が引き出せる訳ではないことは、臨床経験を積めば積むほど分かってくると思います。技術だけでなく心の接し方次第で患者の心理面は変化しますし、強いてはそれが身体面へ波及する訳ですから、「モノ」ではなく「ヒト」をリサーチする難しさがここにあると思います。 このように、カイロプラクティックの施術法を科学的に検証することは非常に難しい課題だと言えるでしょう。しかしながら、アクティベータ・メソッド(AM)50年の歴史を振り返っても臨床現場においてAMを使っている施術者は増え続けているわけですから、帰納法的に考えれば、その臨床現場の広がりから鑑みると、効果を如実に表しているのではないでしょうか。(その3へ続く)スコット・ホルドマン DC, MD, PhD 今年5月15日で私の施術院「ファミリー・カイロプラクティック」は開業15周年を迎える。このコラムでも以前紹介したが、新店舗に移転してはや3年。さらに振り返れば、2002年11月アメリカから帰国して約17年。まもなく48歳になる私は「知命」の50歳に秒読み、結婚14年目で3人の子宝に恵まれ、未だ子育てに奮闘している。こうして書くと「順風満帆」に感じられる方もおられるだろうが、決してそうとは思えない自分がいる。 なぜなら、ロサンゼルス・カレッジ・オブ・カイロプラクティック(LACC)に入学するまでに必要単位取得と英語の勉強で3年を費やし、LACC卒業までトータル約7年の歳月…つまり、7年分の留学費用は私と家族に膨大な借金をもたらし、その返済に人生の半分以上を要しているからだ。 さて、2002年4月LACC卒業後、私はアリゾナ州フェニックスのガンステッド・ドクター「ジェームス・ウォーリックDC」の下でのアウトターン(学外研修生)を終えようとしていた。アメリカに残るための就労ビザも申請していたので、ここから先は私の就労ビザをサポート(身分保証)してくれるスポンサーのカイロドクターを探さなければいけない。もちろん、ウォーリックDCのようなガンステッド・ドクターにサポートしてもらいながら働くことができれば理想だが、アメリカでは外国人として扱われる日本人の立場は厳しい。そこで、私たち日本人留学生はアメリカで開業している日本人カイロドクターにスポンサーになってもらうことが典型的な方法だった。しかし、当時の私は複雑な心境Vol.21に揺れていた。 LACCの卒業式を見に来てくれた両親を観光旅行に連れて行った。車でロサンゼルスからラスベガス、グランドキャニオン、そしてフェニックスでウォーリックDCから父と母はレントゲンを撮ってアジャストを受けた。ロサンゼルス国際空港から帰国する両親を見送るまでの1週間、私が運転する車のバックミラーは後部座席に座る父と母の姿をいつも映していた。父と母が帰国してから、バックミラーを見るたびに何とも言えない寂しさが残った。 それからある日、私はフェニックスからパワースポットとして有名なセドナに一人旅に出た。セドナで川のほとりにたたずみ、真っ青な空を見上げて「自分の生き方」に思考を巡らせた。 「ヒロシ、あなたがこれからやりたいことは何?」『ガンステッド・カイロプラクティックで人の痛みを癒やしたい!』「ガンステッドはアメリカじゃないとできないの?」『いや、日本でもできる。ただ、カイロプラクティックのステータス(地位や免許制度)が確立していない日本ではレントゲン撮影ができない!』「レントゲンが無いとガンステッドはできないの?」『レントゲンをどこかに委託する方法はあるかもしれない!』「ヒロシ、あなたは本当にアメリカにいたいの?」『カイロプラクティックができるなら、アメリカでも日本でも構わない!』…と心の声が叫んだ瞬間、脳裏に故郷・山形県酒田市にそびえ立つ「鳥海山」小野 弘志DCが見え、その光景が消えるとバックミラーに映る「父と母」の残像が浮かんできた。 「Go Home、ヒロシ!」『うん、もう家に帰ろう!!』…私の肚が据わった。 帰国を決断した後、セドナの真っ青な空に不思議な景色が見えてきた。それは、何度も車で通ったマディソン空港(ウィスコンシン州)からMt.Horeb(マウント・ホレブ)の「ガンステッド・クリニック」に向かう途中に見える…広大で何も無く、ただそれしか見えないコーン(トウモロコシ)畑だった。五十にして 天命を知る①GCJ スタッフ 小野弘志DCLACC卒業式 マッセイの論争は続く。「彼等を何と呼ぼうと構わない。クリスチャン、科学者、磁気治療師、カイロパス、病気の祈祷師、予見者、夢遊病者、降霊術者、手相見、自然療法家、癌医者、整骨医。彼等は皆、最も底辺レベルの詐欺師達であり、売薬製造業者や宣伝を出している偽医者や研究所と見分けが付かない。その宣伝の印刷物によって自滅に追いやられた者もいれば、精神異常者保護施設に監禁される者もいる。この影響で心を病んでしまった不幸な人達を診る医師の経験は、危険の存在を告げ、我々の文明化された国におけるこの状態に対して掃討戦を遂行する…。 もう一つの標本が磁気治療師、あるいはカイロパスだ。覚えておいていただきたい。この怪物は、天国に有ると主張する卒業証書が自身に超自然な力を賦与すると断言していること。その様な戯言が受け入れられることはおおよそ不可能に思えるのに、それが事実であること。奴の死の谷に安堵を探し求める不幸な患者達に同情する…私の視野には結末が一つだけあり、それは同じ様な偽物の被害者にならないように、成長している世代に教えることだ。」 ひどく立腹したD.D.パーマー(以下、D.D.)は宣伝誌The Chiropracticの1899年度版を半分近くもマッセイからの非難に対するシステム的な反論に使った。彼等の公開論争は数年続くことになる。 シカゴ出身の青年H.H.ライリングがパーマースクールへ入学したのはマッセイの策略であった可能性がある。ライリングは1900年3月に500ドルの授業料を払うと、直ぐにD.D.をインチキ呼ばわりし始めた。学校敷地内から立ち去るようにD.D.が命じても、ライリングは授業料返却なしで退去を拒否したので、D.D.が警察に通報し、ライリングは逮捕された。しかし、D.D.は苦情書の提出を怠った故に誤認逮捕の責任で訴えられることになる。ライリングは、教育内容の説明を不正確に伝えたことでD.D.を訴えた。 ライリングの事件は、もう少し尾を引くことになるのだが、1901年、S.M.ラングワーシーとT.H.ストアレーがパーマースクールを卒業し、1902年にはD.D.の息子B.J.パーマー(以下、B.J.)がパーマースクールを卒業する。 オークリー・スミスとミノラ・パックスソンとの関連で名前を出したソロン・ラングワーシーについて述べるに好いタイミングだ。ラングワーシーは、病気を無投薬で治す様々な療法を学ぶことに傾倒していた。 その一環としてミズーリ州カンサスシティのアメリカン・カレッジ・オブ・マニュアル・セラピューティックス(American College of Manual Therapeutics)から卒業証書を授与された。後にD.D.のアジャストメントを2週間受けた彼の妻の精神病の状態が変化したことが良い刺激となったのであろう。D.D.の日誌には1901年1月10日と1月17日にアイオワ州デュブーク(Dubuque, Iowa)のS.M.ラングワーシー夫人が記されていて、ソロン・ラングワーシーは友人であったD.D.に治療費の15ドルを支払った。その年の7月1日にラングワーシーは、カイロプラクティック・スクール・アンド・キュアでの教育課程に通常の授業料500ドルをD.D.パーマーに支払っている。 1902年1月19日付けでラングワーシーはB.J.に書簡を送り、「カイロプラクティックとオステオパシー」を教えていることを示唆するとともに、D.D.とB.J.並びにO.G.スミス達とのパートナーシップを提案して、同年の4月にB.J.はラングワーシーとアメリカン・カイロプラクティック・スクール・アンド・ナチュロパシック・キュア(American Chiropractic School and Natu-ropathic Cure)におけるパートナーシップについて話し合い、自然治療(Nature Cure)に関するラングワーシーの本を数冊携えてD.D.のもとに戻った。 B.J.はライアン・ブロック・ビルの地上階に在ったサントンジェ(St. Onge’s)百貨店で販売員として以前に働いていた。 B.J. は1902年1月6日に卒業した4人の内の1人であったが、B.J.はまた、学位を授与される前からアイオワ、ミシガン、ウェスト・ヴァジニアの各州でカイロプラクティックの臨床に関わっていた。 続きは次号のお楽しみに。カイロプラクティックの歴史(第12回)カイロプラクティックの歴史(第12回)中 垣 光 市 DC衝突の  火種②

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