カイロタイムズ115号(高解像度)
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(8)2018年11月19日発行 カイロタイムズ 115号 20世紀初頭、ダヴェンポートでのカイロプラクティック教育課程の学費は500ドルで、最高の医学校での授業料に近い金額であったが、内容は僅か2、3ヶ月のトレーニングを要するものであった。パーマースクールの1899年卒業生で後に競合的専門域のナプラパシーを創始したO.G.スミスは、自身がD.D.から受けたカイロプラクティック教育を徒弟奉公程度に振り返っている﹇Beidman,1994﹈。初期のカイロプラクティック教育には原始的な性格があった﹇Gibbons,1980﹈。 しかし、高次専門教育を比較する観点に於いては、当時のアメリカでは多くの医学校もまた原始的で、ほとんどはアメリカ合衆国とカナダでの医学教育に関してカーネギー基金へ提出された歴史的な報告書﹇Flexner,1910﹈の作者フレックスナー(Abraham Flexner, PhD)によって呪われていた﹇Keating﹈。ちなみに、米国の医学教育で2位と言われているジョン・ホプキンス(John Hopkins)大学学長のエリオットが医学部長に書簡を送って、なぜ筆記試験が無いのかを尋ねたら、医学生達の筆記解答が読めないからと回答が返ってきたのだ﹇Morgenthal, 1988﹈というほどであった。 1897年にパーマースクールアンドキュアを開設したD.D.が1902年にダヴェンポートを去るまでに、D.D.の下で卒業したパーマースクール初期の卒業生は多くない。決して受講生が1回に3人を超えない﹇Palmer,1910﹈ようにしていたことは、卒業者の表を見れば明らかだ。D.D.は彼なりに最善の努力を尽くしていたのだと思われる。D.D.はカイロプラクティックの原理の解明と探求に懸命であったであろう一方で、D.D.の心を悩ます出来事が起きていた。ラングワーシーやB.J.に触れる前に、1900年に入学したライリング(H.H.Reiring)の事件に付いて述べたいが、その背景カイロプラクティックの歴史(第10回)カイロプラクティックの歴史(第10回)中 垣 光 市 DC初期の教育と理論から説明する。 1886年に磁気治療家に成ったD.D.はアイオワ州バーリントンからダヴェンポートに移り、1895年9月18日水曜日午後4時に最初のアジャストメントを行なった結果、ハーヴィー・リラードが重度難聴から回復したことでカイロプラクティックが始まったのだが、理論説明を迫られていたD.D.は翌1896年に、摩擦熱を下げる為に全てのボディーパーツのマニピュレーション(アジャストメントに同義)を行なうと説明した。この最初のカイロプラクティック理論は、D.D.パーマーの9年に渡る磁気治療士としての臨床経験からの派生であり、炎症を病気の本質的な特徴と捉えていたD.D.は、変位した解剖学的パーツ間の摩擦によって体内に炎症が生じると提案した。 この最初の仮説と仮定の一式は明らかに機械的な視野から構成されていた。パーマーは人体を高級時計になぞらえて、自らを「人体の修理工」﹇Palmer,1897﹈と名乗っていた。やがて現われてくるのが調子の概念であり、D.D.はそれを自身の最終的なカイロプラクティック理論で最も重要と考えた﹇Palmer,1910,1914﹈のだが、1901年の時点でD.D.はまだ最初の理論を教えていた﹇Keating﹈。そしてD.D.は骨組織による神経圧迫に排他的な関心を持っておらず﹇Keating, 1995﹈、変位したとみなした解剖学的組織は動脈、静脈、神経、筋肉、骨、靭帯と関節を含めて、整合性を回復する為にマニピュレーションを行った。D.D.パーマーが彼自身の当時の用語であった治療(“treatment”)の為に受け入れた患者の症状の範囲はスティル(A.T.Still)のオステオパシーと同様に広範囲であった。 これら二者のマニピュレーション技能の理論的な基盤は別個であったにもかかわらず、1897年1月の広告紙で「癌の原因を見つけたら、血管と神経への圧力を緩和するのは簡単なことだ。血流が自由になり神経圧迫が取り除かれ、分泌と排泄が完全になるように人体を自然な状態に整えると、患者は良くならざるを得ない。言い換えると、もしも人体の組織機構の様々なパーツが全て正常ならば、分泌と排泄も完璧で、全ての不純物は裏口から投げ出されて、他に出口を見付けることは無い﹇Palmer, 1897, p. 2﹈。」と癌の治療を説明したD.D.の理論はオステオパシーの概念に酷似していた。 この続きは次号のお楽しみに。上村 高史DC 私は膝に負担がかからないように脊柱のみアジャストをしました。 普段の生活で痛みが出ない範囲で平地でのウォーキングを試していただき毎週経過を報告してもらいました。 浮腫はないが1カ月が経過する前に痛みが変わらないので、再度大学病院の整形外科医に連絡して再検査していただきました。その結果は半月板損傷、オペ適応で剥がれた箇所を内視鏡を使いクリーニングすることの説明を受けて患者も納得し安心したようでオペの選択をしました。 手術後入院は3日だけでその間可能な限りリハビリをしていただきました。 退院後は大抵の大学病院は整形外科のリハビリをしている所は少ないです。 理由は都内の病床数を確保するため、またPT等の先生の人員をできるだけ抑えるため、そして入院患者以外はリハビリスペースの確保が難しいからです。 オペから3週間後に大学病院から紹介された病院でリハビリをしてそれと並行してアジャストを再開しています。結果的に手術は成功して必要な症例でした。しかし膝の手術はしても患者はカイロのアジャストに来院されています。それは膝が悪くなってから身体の傾きが気になり、臀部、背中の痛みが出るようになったからです。左右下腿筋肉のバランスの影響もあります。 リハビリに関しても1回に30〜40分と限られた時間内で行っていますので週に1〜2回行かれていれば良い方です。患者にとって術後の数カ月から半年の期間にリハビリをするということが、今後の人生においていかに大切かを指導することも必要です。 執刀した整形外科医とは手術で行った詳細と経過また今後の予定を確認しています。 もちろん患者の診察内容を共有する前に患者に許可をいただいて整形外科医から説明を受けています。それが患者にも良いみたいです。大学病院では待ち時間がとても長いのに、診察時間が短く説明を理解するのに1回では分からないことが多いからです。ですから患者への説明や整形外科医に聞きたいことを患者本人にまとめてもらい診察時に聞けるよう事前に用意していただいています。書き方、聞き方についてもアドバイスしています。その診察時間内に答えてもらえないことも多くありますので文章、メールで後日回答させてもらうこともその後の半月板損傷の    患者についての経過DrDrムウエムムウエムララののリアリリア床ダイアリー臨床ダイアリDr ウエムラの臨床ダイアリーVol.11上村高史 DCあります。これも医師との信頼関係があるから成り立つことだと言えます。またその執刀した先生、どの方も面倒とは思っていません。患者に理解してもらい治療、説明することが術後の経過を良くします。 インフォームドコンセントと手術前のサインはさせられますが良い病院は術後のフォローアップができている病院とも言えます。手術が終わったらそれで手術は成功しているので痛いのはしょうがないという総合病院や大学病院も実際あります。 患者は難しい専門用語を書かれていても理解することができる方は少ないのでそれぞれ患者の立場にたっての説明というのも大切であると思っています。 日本のカイロプラクティック院ではどれほど検査で異常がみつかり専門医に紹介されているかは分かりませんが、臨床を始めて5〜6年経過する位の先生方がまず気をつけないといけないと思います。それは自信がついてきて何でも自分一人で治せる、良くすることができると自信過剰になる傾向にあるからです。 それは大きな間違いです。 それが最終的に患者の施術後の悪化、事故につながる事を再度認識していただきたいです。 これはいつも来院される各専門分野の医師の方々も同じことを言われていましたのでどの世界でも共通かもしれません。また、手術が成功したからもう関係ないではなく、手術後のフォローアップをしっかりと行うこと。この2点が専門医には必要だと思っています。 第20回学術大会(主催:日本カイロプラクティック徒手医学会)、第8回世界手技療法会議(主催:ICoC実行委員会)と大規模なイベントが開催された。素晴らしい論文・研究発表や手技療法者と医療従事者のディスカッションもあり、日本での手技療法の可能性が少しずつ広まってきているように感じた。 第8回世界手技療法会議では、昨年まで韓国で開催されており、アジア諸国のカイロプラクターや手技療法関係者が多数参加していた。今回は日本開催が初で、国内外の大学教授や学生も多く参加されており、日本では珍しい会議となった。編集後記〒160-0023東京都新宿区西新宿3-1-5新宿嘉泉ビル8FTEL0120-223-505 FAX0120-223-509E-mail:info@chiro-times.co.jpURL:http://www.chiro-times.co.jp/日本医科学出販株式会社 カイロタイムズ編集部カイロタイムズでは、皆様からの広告・寄稿・情報提供を募集しております。

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