カイロタイムズ113号
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(5)2018年5月21日発行 カイロタイムズ 113号フランスのオステオパシー大学と同内容のカリキュラムを学べる学校 SAJはフランス国家認定校「A・T・STILL ACADEMY大学」(以下、ATSA本校)と日本で唯一正式提携し、日本にいながらATSA本校とほぼ同内容のカリキュラムで学べるオステオパシー学校である。しかもフランス・リヨンのATSA本校からフランス人講師が派遣され、全カリキュラムを同時通訳付きで直接学習するスタイルだ(症候学と臨床レントゲン学は日本人の医師、講師が担当)。授業は5年制で、2カ月に一度4〜6日間の連続した授業が行われる。 入学資格は、医師、歯科医師、理学療法士、作業療法士、柔道整復師、針灸師、あんまマッサージ指圧師など医療系有資格者。看護師は基礎的な手技療法科目200時間の事前研修を受講後、入学することができる。オステオパシー専門校およびカイロプラクティック専門校の卒業者も入学可能(いずれも2年間以上の専門校卒、授業時間数の提示が必要)で、多くの受講生が働きながら学んでいる。論文発表とD.O.称号授与 5年間のカリキュラムを修了した第1期生16名は、フランス・リヨンでの研修と最終試験に臨んだ。現地試験官(医師と2名のオステオパス、いずれもフランス人)の前で、本当のフランス人患者に対し問診・診断・施術を行うという、難度の高いものだ。16名全員が合格し、日本にいながら初めてフランス政府公認校のディプロマ(学位証書)を取得した。このディプロマは国際的に認められている資格である。 最終試験合格者のうち10名が論文課程を希望し、さらに1年間の論文課程へ進んだ。各人の臨床経験を存分に活かした論文はATSA本校で審査され、承認されたものが今回発表された形だ。プレゼンテーションは同時通訳を介して行われ、フランス人講師との質疑応答を含め計60分間に及んだ。質疑における講師の指摘は非常に鋭いものであったが、フランス式の答えを押し付けるのではなく、日本での今後の臨床活動に役立つ形でのアドバイスに終始したことに驚いた。講師の一人は講評で「今の日本は30年前のフランスのようだ。フランスで30年かかったように、社会に浸透し、医師や国民からの信頼を得て法制化される日まで、日本でもやるべきことを地道に積み重ねてほしい」と語った。 SAJ受講生は口を揃えて「フランスの講師がすばらしい。出し惜しみなく、情熱をもって熱心に教えてくれる」と言う。これがSAJ教育の根幹を支えている。ATSA本校の講師から同時通訳つきで全カリキュラムを学べる環境は、なかなかない。医療系有資格者として、あるいはオステオパシーやカイロプラクティックの治療院で働きながら、5年6年という時間を注ぎ込むのは容易ではない。しかしそれを超える「何か」があるからこそ彼らはSAJ入校を決めた。学校の質、生徒の質が高いレベルで一致した結果、日本のオステオパシー業界を担う優秀な人材が新たに誕生したことは間違いない。ATSA本校から大きな惜しみない支援を受けながら、SAJでは2018年秋以降から第4期生を受け入れる予定だ。 2018年3月3日(土)〜4日(日)、東京都日本橋堀留町のスティル・アカデミィ・ジャパン(以下、SAJ)にて、臨床論文の発表およびD.O.(ドクター・オブ・オステオパス)の称号授与式が行われた。SAJでは第1期生の最終試験合格者16名のうち、希望者10名が論文課程に進み各人の臨床経験に基づく論文を執筆。この日のために来日した3名のフランス人講師が耳を傾ける中、同時通訳を介し熱のこもったプレゼンテーションが行われた。ATSA本校のフランス人講師たち論文発表の様子スティル・アカデミィ・ジャパンから新たに10名のD.O.が誕生 スティル・アカデミィ・ジャパンから新たに10名のD.O.が誕生  2002年6月に自分のオフィスをカリフォルニア州オレンジカウンティにオープンしてから早いもので16年が経とうとしています。この間に幸いオフィスは順調に伸び、現在働いている2名のD.C.を含めると過去に7名の日本人D.C.が一緒に私のオフィスで働いてくれました。その中にはいろいろな問題があって解雇した先生もいましたが、それを含めて人を雇った経験は、私をカイロプラクターとして、そして一人の人間として大きく成長させてくれました。 アメリカにいる日本人D.C.がアソシエートドクターとして働く理由は、⑴アメリカに残るためのビザのサポートが欲しい⑵純粋に学びたいのどちらかだと思います。どちらも追い求められるのが理想ですが、なかなかうまくいくものではありません。なぜなら、アメリカでカイロプラクターとして働くための最大の壁は就労ビザ取得ですが、就労ビザをサポートしてくれる雇用主はなかなかいません。私も卒業前、数多くのアメリカ人D.C.に履歴書を送りましたが、ビザの話をするとなかなか受け入れてもらえませんでした。私は幸運にもロサンゼルスで日本人の先生に雇ってもらうことになり、そこから就労ビザ、米国永住権取得までお世話になりましたが、ビザ取得の苦労は身に染みてわかりました。 就労ビザのこともあり、D.C.となって自分が一番働きたいオフィスで働けるわけでもありません。一方D.C.になる人は学生時代、自分がはまったテクニックを一番だと思い、卒業後もそれにこだわっていく場合が多いです。オフィス的には私と同じ治療方法で診てもらうことが一番なのですが、なかなかそうはいきません。私のところで働いた先生方もそれこそ、ガンステッド、NAET、AK、ART、DNFT、モーションパルペーションなど、全く異なるジャンルのテクニックをそれぞれ使っており、私と同じ治療をしていた訳ではありませんでした。その中で、私自身が自分のオフィスで働いてくれる先生方を私の弟子ではなく、カイロプラクティックを治療する同志である、と頭を切り替えたことで、いろいろなことを学ぶことができました。例えばガンステッドを熱心にやっている先生とは、一緒にアメリカ中を飛び回って、ガンステッドのセミナーを受け、共に学ぶというVol.1Vol.1世界で活躍するDC新井直澄 D.C. DIBAK CCSPアメリカでの雇用ようにことで、私自身が大きく成長できたと思っています。 多くのアソシエートの先生を雇うことで私が学んだことは、様々な自分が知らないカイロプラクティックのテクニックに対して偏見を持たず、むしろそれぞれの治療法の良さを積極的に吸収できたことが大きな収穫でした。一つのテクニックだけでも極めるのは大変ですが、学んだ全てを極めてやろうという気概こそ必要ではないかと思っています。それはカイロプラクティック業界の先人たちが、まだ何もない時代に道を切り開いてくるのに費やした時間や労力に比べれば、インターネットやDVDなど、数々の先人たちの書籍に囲まれ、現代の恵まれた環境にいる私たちに出来ないことは無いと思うのです。日本で大学卒業後会社員として働くも、自身の腰痛をきっかけにカイロに興味を持ち、勢いで1996年6月アメリカに渡米。1999年12月ライフウエスト大学卒業、D.C.となる。卒業を前に、D.C.を取ったくらいでは日本に帰ってもとてもじゃないけど通用しないということを感じ、アメリカで経験を積むことを選択。LAの本間先生のオフィスに就職。その後2002年6月に、LA郊外オレンジカウンティに自身のクリニックを開業後、2014年、日本人で初めてApplied Kinesilology (AK) の認定資格コースを教えることが出来るDIBAK (Dipomate of Internatinal Borad of Applied Kinesiology)を取得。新井 直澄(あらい なおずみ) プロフィール 二度ほど言及したナチュロパシーとは、「自然」、「非侵害的」、そして「自然治癒」を促進すると焼印された一連の療法を用いる擬似科学的な補完医療の一形態であり、そのイデオロギーと方法は科学的根拠に基づく医学よりも寧ろ生気論と民間療法に基づいている。一般にナチュロパシー療法家は医学検査、処方薬、ワクチン、外科手術に限らず、近代医学療法を勧めないが、ナチュロパシーの学問と療法は非科学的な考えに依存し、往々に事実に基づく長所に欠ける診断と治療に至る【ウィキペディア参考】と言われている。 医学の専門家達はナチュロパシー療法を非効果的で、ことによると有害と考え、その実践に倫理的問題をあげている。例えば米国癌協会といった医学界からの非難に加えて、ナチュロパシーの臨床家達はニセ医者であることとインチキ医療行為で繰り返し告訴されている。長年に渡り多くのナチュロパシー医療家が、世界中の法廷で刑法責任を問われていて、ナチュロパシーを用いる療法家と医師達が自らを医学の専門家と称することを犯罪と見做す国もある【ウィキペディア参考】。 ナチュロパシーを非科学的と全否定するのは疑問に思える。 民間療法はリサーチが不足な一方、古来からの経験則を無視するのは勿体無い。未科学と非科学は異なる。 生命と健康を守るのが責務である医療家が、ドグマに支配されることが最も非科学的だろう。 さて、話をパーマースクールに戻そう。1899年卒業のオークリー・スミスDCは、1880年1月19日アイオワ州ウェストブランチの農場に生まれ、4歳迄は元気だったのに、猩紅熱に罹り次の16年は酷い発作を生き抜いたけれど、成長を阻害された青白く虚弱な若者であった。 両親のロバートとアンは裕福だった故、誰かれ知り合いがカイロプラクティックの歴史(第8回)カイロプラクティックの歴史(第8回)中 垣 光 市 DCナチュロパシーと    ナプラパシー耳にした新しい医者という医者へオークリーを送り、異なる医薬を試し、あちこちの温泉も試したが、健康状態は良くならぬままだった。 そのオークリーがD.D.パーマーのアジャストメントを受けて楽になったのだ。 18歳でダヴェンポートのパーマースクールアンドキュアに入学したオークリーは、やがて、もっと結合組織の治癒と修復に焦点を合わせた彼自身の理論をパーマーの脊椎サブラクセーション概念の上に発展させた。B.J.と同じ程の時間をD.D.と過ごしていたと言われたオークリーだが、1899年にパーマースクールを卒業後に、自身を治療する方法を学ぶ期待から、19歳でアイオワ大学医学校に入る。そこで彼は解剖学、生理学、解剖実習のクラスを取り、在学した2年間で2〜300の外科手術を見た。 オークリーは自らが考案した脊椎のマッサージを弟ホートンに指示し、自身の背中の部分部分を手当てさせ試行錯誤を重ねた。オークリーは週5回の治療を3ヶ月受けて血色が改善し、ホートンが卒業するまでの2年間で夜遅くまで仕事ができるようになった。奇跡の様に健康を取り戻したオークリーは将来にナプラパシーと呼ばれるテクニックを開発したのだ。  1904年、O.G.スミスは、パーマースクールの後輩であるパックスソンと共に、同じく後輩のラングワーシーがアイオワ州シーダーラピッズに1903年設立したアメリカンスクールオブカイロプラクティックアンドネイチャーキュアの教員になる。 脊柱の結合組織の損傷が神経インパルスを阻害すると信じたO.G.スミスが脊椎靭帯の固縮と神経圧迫の関係をアメリカンスクールで解剖学的調査を続けたのは明らかだ。 1905年11月16日の午後11時45分、脊椎の接続組織に「リガタイト」と呼ばれる固縮した靭帯をオークリーが顕微鏡下で初めて観察した。ナプラパシーの科学が確立された瞬間であった。 1900年代初頭、O.G.スミスはボヘミアを長旅していたとき、古来から病気の治療に用いられナプラヴィットと呼ばれる背骨マッサージ術があることを知り、それを農夫が行うのを観察した。O.G.スミスは、ナプラヴィットが自分の開発してきたテクニックに似ているけれども異なると判断したが、自分のテクニックを名付ける参考にした。 次号に続く。

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