カイロタイムズ112
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(3)2018年2月19日発行 カイロタイムズ 112号 一般社団法人日本カイロプラクティック徒手医学会(JSCC、中川貴雄会長)では平成27年度からポイント制を導入し日本カイロプラクティック徒手医学会認定称号を送っている。残念ながらまだ会員にも周知されていないのが現状だが平成21年度(保存資料の関係上)まで遡り全会員のポイントは一人一人合計されている。各項目のポイントを合計して500ポイントを満たしたら上級学術研究員、200ポイントは学術研究員とし、対象者には認定証を贈呈してカイロプラクティックの真理をなお追求し学術的啓蒙の継続をして頂いている。来年度の第20回記念学術大会では認定式を行う構想だ。 会費納入で5ポイントがカウントされるので0ポイントの会員はありえず、各ポイントは学会誌の称号規定に掲載されている。例を挙げると論文30、最優秀賞20、優秀賞10、奨励賞5、研究発表20、大会長20、実行委員10、座長10、理事10、代議員5ポイントなどの他に学術大会参加20、支部発表、CDF講師各10、支部活動、CDF参加、支部運営委員は各5ポイントなど獲得しやすいポイントも設けている。その他にも新入会員推薦で3(推薦人は2名まで)、他団体での発表(学術検討委員会での判断あり)10ポイントなどもある。 学術研究活動を中心に安全かつ有効なカイロプラクティックを啓蒙していくのが目的である。毎年、大会長を始め実行委員、理事、代議員、講師そして参加者などの協力を得て学術大会も19回を終える事ができた。また28年度から新たにCDF(カイロプラクティックフォーラム)なども始まっている。一般社団法人として責任あるカイロプラクティックの普及を行っていくと共に一人でも多く当学会の趣旨に賛同して頂けることを切に望んでいる。称号に関する認定規定 日本カイロプラクティック師協会(JSC)前副会長       JSCC代議員 南 部   徹ティックティックククククククククククィッッィテテプラクテプラクテクククククククララプラプカイロプカイロププロロロロロイイイイカイイカカカカ本カ本カ本カ本カ本本本本本本日本日本日日日日日日日ククィッィッティテククララロプロプ本カイ本カイ日本カイ日学学学学学学学学学学医学学医医医手手手徒手徒手手手手手手徒徒徒徒徒徒徒徒徒徒徒徒徒手医学徒手医学会会会会会会会会会会信信信信通信通信通通通通通通通通通信通信日本カイロプラクティック徒手医学会通信vol.8 預言者エドガー・ケイシーは、「将来、人類の問題を解決するには、背骨の中を通るエネルギーの流れをよくしなければならない」と言った。 発明家トーマス・エジソンは、「将来の人類は、薬や手術に頼ることなく、背骨と栄養を重視するであろう」 医療巨人クレアランス・ガンステッドは、「医療の若造たちは、背骨調整の威力を誰も理解できていない」と、それぞれが、それぞれの時代に言い放った。 そもそも、人間の形態を見れば、一目瞭然だ。「人間を生かしているエネルギーは、人間の真ん中にある背骨を通っている」。 われわれ、背骨の生命エネルギーに従事するものは、このことをよく把握していなければならない。そういう重大事に関わることに生きる喜びをもっていなければならない。 その上で、われわれは、人間を生かすそのエネルギーが、とてつもなく繊細であること、かつ、繊細でありながら、とてつもなく力強いことを知っていなければならない。そういうプロフェッショナルこそが、真に人間の人生に関わることができるのである。 追記:本年2018年度の米国ガンステッドカイロプラクティックセミナー・ジャパンは、開催環境の整備を理由に、引き続き、開催を見送ります。環境が整い次第、パワーアップして再開したいと思います。人類の巨人たちを通して学んだことGCJ代表 松 久   正Vol.16松久 正MD, DC 本場アメリカでも、カイロプラクティックのテクニックと謳っていますが実際にはカイロプラクティックとは云えないものも多く散見されます。 以前に紹介した素手でアジャストを行わず器具を用いる類もそうですが、実はカイロプラクティック・アキュパンクチャーと呼ばれているものもあります。アキュパンクチャーとは鍼治療のことです。 我々日本人なら、カイロプラクティックは米国発祥の独自の徒手医療システムで、鍼治療は中国を起源とし、中国・日本・韓国など東亜細亜で発展普及した東洋医学の一部と理解していますから、カイロプラクティック鍼治療など有り得ないと思うのが普通でしょう。 それは、カイロプラクティックと鍼(東洋医学)の両方に対する侮辱・冒涜であり、両専門職にとって破滅的悪影響を与える危険性すらあります。 困ったことに、カイロプラクティック・鍼治療評議会を設立認定しているのが、あの米国カイロプラクティック協会(ACA)なのです。 ACAは、鍼の他にもカイロプラクティック・オーソベディックス(整形外科学)やリハビリテーション、診断と内科系疾患などの評議会を持っており、西洋医学の範疇、東洋医学の範疇のものと「ごちゃ混ぜ」の状況です。 また、他にもアニマル・カイロプラクティックと謳っているものもあり問題になっています。 アニマル(動物)を診察、診断、治療できる専門職は獣医師であり、米国でも州の法律や条令等によって差があるもののカイロプラクターが動物に施術を行うことで獣医師とトラブルになるケースがありました。 現在は、米国獣医(家畜)カイロプラクティック協会(AVCA)なる団体が、DCと獣医師の両方に対してアニマル・カイロプラクティックの認定を与えているようです。 しかし、認定云々の前に、テクニックに絡む問題2松下 順彦DCVol.それをカイロプラクティックと呼ぶに相応しいのか、という問題があります。 BJパーマーは、アニマル・カイロプラクティックを研究していましたが、結局それをカイロプラクティックとして導入しませんでした。 動物の種によって脊椎の形状等が異なる、X線フィルム分析を行えない、NCMなど温度計測機器が使えない、などカイロプラクティックの科学が生かせない事に加えて、獣医師との争議を避ける為であったと云われています。 私は、パーマー大学で脊柱解剖学2解剖実習用学習ノートを出版しており、脊椎への関心から、人間、マンモス、鹿、猫、狼、兎、大山猫、カワウソ、北極狐など計18種の哺乳類の第1頚椎(一部はC2とC3も)を収集し、形状などを研究していますが、写真の様に同じ哺乳類でもC1だけでこんなに形状が違うことが判ります。 人間の脊柱だけでも解剖学的に理解するのは大変なのに、他の動物のそれを十分に学んでいるのでしょうか? こんな種によって解剖学的にも形状からして異なる脊椎のサブラクセーションを、前述のカイロプラクティックの科学であるツールも使わず、どうやって判定するのでしょうか? アジャストも何を根拠に、どこにコンタクトして、LOCはどうするのでしょうか? BJパーマーは云っています、「カイロプラクティックはスペシフィックであり、そうでなければ無価値である」 動物へのマニピュレーションにスペシフィックであると云える要素は皆無だとBJは判断したのでしょうか。上左から人間 狼 ヘラジカ 猫 洗熊 クズリ 鹿 兎 鼠 アイオワ州ダべンポートの商業地区では、手技療法で得た臨床結果をもって磁気療法士から変身したカイロプラクティックの父が、ライアンビルの4階に40床の施設で患者のケアに従事し、繁盛していた。カナダ生まれのドクター・ダニエル・デイヴィッド・パーマー(1845-1913)は自称ドクターであった。 また彼は新しい治療法であるカイロプラクティックを教えていたが、「磁気マニピュレーター」がDC達の養成学校運営に要する公式な資格は限られていた。D.D.は1870年代から1880年代にかけてアイオワ州とイリノイ州の田園地域で公立小中学校教師として生計を立てていて、1897年から翌98年にかけてシカゴ独立医科大学の教員として名を連ねていたD.D.の最初の生徒はリロイ・ベイカー(LeRoy Baker)であったと言われている。1897年にミズーリ州フルトンの列車事故で命を落としそうになってすぐ、D.D.は鉄道事故で負った傷害を治療するのに十分なカイロプラクティックをベイカーに教える。入学したベイカーにD.D.は触診を教え始めた。2週間から3カ月のコースであったが、そのコースをベイカーは終えることはなかったと言われ、卒業に関しては意見が分かれている。 1898年1月15日、最初のカイロプラクティックカレッジの始まりを記す日でもあった。同種療法医シーリー(William Ambrose Seeley MD)は、8週から10週間の教育に対して500ドルの現金をD.D.に支払い、最初に授業料を払ったカイロプラクティックの学生として歴史に名を残す。1898年、最初の卒業生は2名、シーリー(William A. Seeley, MD, DC)とデイヴィス(Andrew P. Davis, MD, DO, Oph. D, DC)であった。これらの初期のクラスでは、D.D.は4番から12カイロプラクティックの歴史(第7回)カイロプラクティックの歴史(第7回)中 垣 光 市 DCD.D.の最初の弟子番の胸椎をアジャストすることだけを教えた。 A.P.デイヴィスは、1835年3月10日に、ニューヨーク州アリゲイニー(Allegany)郡に生まれ、父は著名な医師で、学識深い学者であり当時の深淵な思想家として認知されていた。デイヴィスは、1861年頃に医学の勉強を始め、最初に折衷主義的なシステムを徹底的に調査し、後に異種療法に注意を向けて、シカゴのラッシュ(Rush)医学校に入学し、1866年に卒業した。約11年間たゆまず異種療法を臨床したデイヴィスは、同種療法の学習を開始し、オハイオ州シンシナティのパルティ(Pulte)同種療法医科大学を1877年に卒業し、同年に眼科学をも修めている。 1879年頃、デイヴィスはテキサス州コルシカナ(Corsicana)に移り、その地で同種療法のパイオニアに成り、その地域で同種療法を好意的に受け入れられることに成功したのだが、過労と健康失調で休業せざるを得なくなり、その間、デイヴィスはニューヨーク市に行き、ニューヨーク眼科大学で6カ月のコースを受けている。1880年の春、デイヴィスはテキサスに戻って、ダラスに落ち着いた。テキサス州ダラス郡で同種療法医学における最先端の医師の一人であった。 自分の知識欲に相応する医学知識を獲得しなかったデイヴィスはもう一つ開口外科の特別コースにも参加した。1898年にD.D.の下でパーマースクールを卒業し、テキサスに戻った。テキサス州で最初のカイロプラクティックドクターであろう。 A.P.デイヴィスは、西洋医学、即ち異種療法(アロパシー)の他に同種療法(ホミオパシー)でMDの学位を取得した後に、スティル(Still)からオステオパシーを勉学中にD.D.のカイロプラクティックに転向した。D.D.の下でカイロプラクティックを学ぶ前に、デイヴィスはMD、そして整骨医(オステオパス)であったと同様にナチュロパシーの医師であった。DDに師事を受ける前にデイヴィスはオステオパシーの著作を2冊出している。デイヴィスとの広範囲な論争でD.D.は解剖学と生理学の専門的知識を示したが、デイヴィスは理論と適用で異論を唱えて、ナチュロパシーに傾倒していった。 カイロプラクティックのイデオロギー論争は続く。次号をお楽しみに。

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