カイロタイムズ109
3/8

(3)2017年5月15日発行 カイロタイムズ 109号カイロタイムズに広告掲載しませんか?カイロタイムズに広告掲載しませんか?広告主募集!商品紹介代理店募集セミナー案内など0120-223-505TEL:E-mail: CHIRO-TIMESinfo@chiro-times.co.jp日本医科学出販株式会社カイロタイムズ詳細は下記までお問い合わせください。締切は発行日の1ヶ月半前1ヶ月半前110号予定2017年8月発行111号予定2017年11月発行 去る3月31日、株式会社ワールドジェイビー(以下、ワールドジェイビー)は、東京整体学院いろは学舎(以下、いろは学舎)の協賛の元、整体向け商品の販売促進と商品改善を目的とした座談会を開催した。 ワールドジェイビーは、美容サロン向け業務用製品を中心に製造販売で知られる総合美容メーカー。近年の治療業界における美容への需要の高まり、販路の拡大を精力的におこなっている。 今回の座談会は、治療業界への商品販売力の強化を目的としたもの。いろは学舎の協賛により、同校で教鞭を取る指導者と学生、一般セラピストなど9名が参加した。いろは学舎は、実践的な授業と手厚い進路支援のサポートが特徴のボディセラピスト養成スクール。今回の座談会も商材知識の向上を図る校外サポートの一環としておこなわれた。 座談会は、ワールドジェイビーが販売する商品を実際に使用し、現場での使い勝手を実体験することからスタート。当日用意された商品は、美容や治療現場では欠かせない、ベッド・マクラ・フェイスシートなどおよそ20点の商品が並んだ。中でも同社の治療業界向け商品である「Sラインベッド」に注目が集まっていた。Sラインベッドは、ベッド天板の中央をシェイプした整体・カイロなどの手技施術を考慮した商品。お客様により近い場所で施術ができるという同社オリジナル商品。実際に施術者同士が相互に使用感を確認しつつ意見交 治療業界への販路拡大を目指すワールドジェイビーが、いろは学舎と協力。商材に関する意見交換のための座談会を開催した。整体・カイロ商材の座談会を開催整体・カイロ商材の座談会を開催換をおこなった。 参加者は男性施術者2名と女性7名。開業・現場経験のある方も多く、用いる手技も整体・カイロからタイ古式マッサージ、オイルトリートメントなどさまざま。それぞれの得意とする手技に合わせた、商品に対する意見が交換された。ワールドジェイビー企画部課長の鈴木健太郎氏は、「治療業界の実情と商品の選択は、美容業界とは違う点も多いが共通する点も多い。実際に使う人の意見を反映して、自社製品の良さを広めていきたい。また、治療業界の声を反映した、オリジナル商品の開発にも挑戦していきたい」と語る。同社は、治療と美容の垣根を超えた商材の提供に力を入れていくとのことだ。S字ラインベッド体験参加者同士での商品の体感 1896年1月に、牧師サミュエル・ウィード によって、ギリシャ語の「手(Chiro)」と「技術(Prakticos)」の2語から「手で治す」の意味で造語されたのがカイロプラクティックであった。同じ年にD.D.が発表したカイロプラクティックの叙述と基礎をなす哲学は、10年前に樹立されたアンドリュー・テイラー・スティルに依るオステオパシーの原理の模倣であった。相方が人体を機械的観点から捉え、そのパーツにマニピュレーションを施すことで無投薬の治療が可能と主張し、健康改善の為に脊椎の関節機能不全にマニピュレーションを用いることを相方が公言した。D.D.は、棘突起と横突起を機械的梃子として用いる短梃子のマニピュレーション・テクニックを最初に用いたことを特色として自らの業績を差別化し、カイロプラクティックの脊椎マニピュレーションの効果が、主に神経系の介在に依ることを記述した。 パーマー・スクールと診療所は、1897年に最初の生徒を受け入れ、後にパーマー・スクールと診療所はパーマー・スクール・オブ・カイロプラクティック(以下、PSC)と改称して臨床と教育の両方を継続した。しかし、当時は丁度、スティルがオステオパシーの学校を始めた頃でもあり、D.D.は自分の考えやテクニックが盗まれるのを恐れた。  1902年、D.D.は理由も告げず、ダベンポートを去り、オレゴン州とカリフォルニア州で講座を開いて西部地域へのカイロプラクティック教育浸透に努力していた。 1903年にダべンポートへ戻ったD.D.はB.J.と対等株主の合名会社を作り、1906年まで続いた。 1906年にアイオワ州スコット郡に於いて無免許医療の咎で裁判に掛けられたD.D.は、有罪判決の結果、投獄された。 刑期を終えた後、カイロプラクティックの歴史(第4回)カイロプラクティックの歴史(第4回)中 垣 光 市 DCパーマーの闘い3D.D.はPSCの自分の持ち株をB.J.に売り渡して、西部へ移住し、オクラホマ、オレゴン、カリフォルニアで学校を開いた。  D.D.は、スティルとのイデオロギー論争ばかりか、息子B.J.とPSCの運営でことごとく反論しあい、他には顧問弁護士のカーヴァーとも論争し、論争はB.J.が引き継ぐのだが、それらの概要は追って解説する。ダベンポートを去ったD.D.は、1910年に自身の著作を1000頁の大作に纏め上げた。  そして、1913年7月、アイオワ州ダベンポートのユニバーサル・カイロプラクティック・カレッジのホームカミング・パレードで、B.J.は自動車に乗ってパレードに参加していた。突然、小さな米国旗を振るD.D.が卒業生の行進を先導しようとして、パレード組織委員の在校生に止められて、口論となったところへ、B.J.の運転する車が到着し、父子の間で言葉が交わされた。  D.D.はB.J.が自動車で衝突してきたと主張し、後日、D.D.の友人と味方は目撃証言の宣誓書を提出した。B.J.は完全に否定し、D.D.達が集めた証言よりもっと多く反証の証言を提出した。B.J.側の目撃者は、B.J.が車でD.D.を撥ねたのではなく、D.D.がよろけたと証言した。真実は定かではないが、D.D.とB.J.双方の主張を基に推測すれば、ユニバーサル・カイロプラクティック・カレッジに招かれて、息子B.J.の成功に心躍らしたであろうD.D.は、パレードでB.J.の運転する車を先導しようとしたが、パレード組織委員に危険だと止められ口論になって、D.D.に気付くのが遅かったB.J.は自らの運転する車でD.D.を撥ねてしまったのか、或いは軽い接触でD.D.が転倒したのであろう。  事故から3カ月後、1913年10月20日にD.D.はロサンゼルスで死去したが、葬式参列に息子B.J.が来ないことを命じて逝った。D.D.の管財人、ジョイ・ロバンは、B.J.がD.D.を車で撥ねD.D.の死亡の原因となったと主張し、民事訴訟を起こしたが、数カ月も法廷で係争した後に任意で民事訴訟を取り下げた結果、審議は不利益無しで却下され、再審は無かった。アイオワ州スコット郡の地方検事もB.J.を殺人罪で起訴したが、二度の大陪審は証拠不足で却下した。この続きは次回のお楽しみに。

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る