カイロタイムズ108
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(5)2017年2月20日発行 カイロタイムズ 108号治療院・リラクゼーション経営塾治療院・リラクゼーション経営塾著者:PCC治療家塾 花谷博幸出版社:かんき出版 価格:1,600円/税別治療院・リラクゼーション経営の最新経営方法のノウハウ本!!ご応募の締切りは3月10日到着分までとさせていただきます。 ※当選者は次号でハンドルネームと都道府県を掲載させていただきます。新刊無料プレゼント3名様へ〒160-0023 東京都新宿区西新宿3-1-5 新宿嘉泉ビル8F 「カイロタイムズ 新刊プレゼント係」●お名前 ●ご住所 ●ご連絡先 ●ハンドルネーム ●今後取り上げて欲しい内容 ●ご感想をご記入のうえ、ハガキにてご応募お待ちしております。宛て先 前回記述した、リオ五輪金メダリストのスクーリングですが、先日チャイニーズスイミングクラブの新しい体育館の落成式でスペシャルゲストとして招かれたことが取り上げられました。 まだまだシンガポールではリオ五輪の影響が残っており、スクーリングは現在でも話題の人となっています。そんな彼が、なんとカイロプラクティックアソシエーションメンバー、オースティンDCの治療を受けました。そのことも少なからず影響しているのでしょうか、今後は施設附属の治療室で、理学療法やマッサージなどと共に、カイロプラクティック治療もスポーツ選手に提供される予定との事です。 さらには、今年5月にスポーツコーチングアカデミーが創設されます。こちらは、色々なスポーツでの指導技能や能力の発展を支援させていく目的で行われます。この様にオリンピックを契機に色々改革をしていこうと直ぐに動き出せるのもシンガポールの良い点の一つだと感じます。実現に向けて、的確に目標を立てて働きかけていく迅速な対応力は尊敬に値しますし、日本も見習ってほしいと思います。 さて、話は変わりますが昨年12月に心友レイモンドがシンガポールマラソンに参加する為、香港から来星しました。彼はパーマー大学時代からの付き合いです。彼に出会っていなかったら、私はカナダの国家試験やオンタリオ州の試験はパス出来なかっただろうと思うこともありますし、シンガポールで働くのを後押ししてくれたのも彼なので、私のカイロプラクター人生は彼無くしては語れないのです。今ではお互いに家庭を持つほど歳月は過ぎていますが、今回の彼の滞在最終日に一緒に飲みながら昔話や現在の状況などを語り合ってみると、なんだか学生時代に戻ったような感覚になりました。久々に楽しい時を過ごすことができ、次は香港で会おう、といつものように別れたのがなんだかとても懐かしかったです。 また、彼と話をする中で、カイロプラクティックの現状に関しても少し話しをすることができたのですが、シンガポールにおいては、やはり先に述べた様にスクーリングの影響が現在まだ大きいので、その彼がカイロプラクティックの治療を受けたということは、今後シンガポールでのカイロプラクティックのあり方にも変化がある可能性も無いとは言い切れません。どのようになっていくのかしばらく見守りたいと思います。リオ五輪、その後…齊田 貴文DC がん治療の化学療法や吐き気予防の薬でしゃっくりが副作用として発生する事が多々あります。がん患者にとってしゃっくりの軽減は難しいもので、絶え間なく続くしゃっくりは日々の生活にも影響を及ぼします。投薬でもその緩和に効果を表すとはいえ、化学療法の上に薬の副作用にも苦しんでいる患者にとって、これ以上の処方薬は負担となるでしょう。そこで私達カイロプラクターの出番です。 39歳男性患者の実例です。彼はステージ4の虫垂腺がんで最初の化学療法を受けた後にしゃっくりが出始め、同時期に重度の首の痛みも出始めました。彼の両親は彼が少しでも楽になるようにと症状の軽減をドクターに願い出ました。その時この病院は、カイロプラクティックを治療の選択肢として選んだのです。 カイロプラクターの評価では頚椎周囲の筋肉と胸鎖乳突筋に中度の緊張があり、左の胸鎖乳突筋の触診中にしゃっくりの軽減が少しありました。患者の同意の下、DCは首に軟部組織マニュアル・セラピーを、C4-5にアジャストメントを行いました。すると即座にしゃっくりの症状は軽減し、首の疼痛レベルは治療前の8から5に軽減しました。翌日にはしゃっくりはもう出なくなっており、アジャストメント後に疼痛レベルは4に軽減し治療は終わりました。この治療の大事な所は主に第四頸神経から起こる横隔神経に影響を及ぼすアジャストメントを施した事です。 アメリカではDCが常勤している病院もあります。この病院はそうではなかったのですが、病院側からカイロプラクターに治療を依頼し、病室での治療を許しているところは、MDとDCの理解が進み統合医療がいよいよ始まっている事を実感できます。この治療を目撃した医師、看護師達にとってカイロプラクティックはさぞ新鮮に見えたことでしょう。しかし私達にとっては100年以上日々至る所で起きてきた事です。これからの統合医療にもカイロプラクティックは大いに必要となってくるはずです。統合医療を担うカイロプラクティック中島 一光DC カイロプラクティックのテクニックは200種類ぐらい(程)あると云われており、その中から本場アメリカでよく用いられている様々な方法やテクニックがありますが、カイロプラクティック哲学専門医(DPhCS)の視点から分類して紹介します。 A、創始者D.D.パーマーの定めたカイロプラクティックの定義と整合性のあるカイロプラクティックのテクニック。▼上部頚椎系:HIO(ターグルリコイル、パーマー上部頚椎スペシフィック)、ブレアー、ヌカ、グロスティック、ケール。▼フルスパイン系:ディバーシファイド、パーマー・ディバーシファイド、ガンスティッド。▼ドロップ・テーブル系:トムソン、ピアース・スティルワゴン。 B、器具を使うなど、定義の定める「素手によってのみアジャスト」に合わない、カイロプラクターに用いられているテクニック。▼アトラス・オーソゴナル、アクティベーター、ぺティボン、コーレン・スペシフィック、トルクリリース。 C、オステオパシーや中医学(鍼灸、刮痧(かっさ)療法)など他の医学の治療法を模倣して、カイロプラクターが用いているテクニック▼仙骨後頭骨テクニック(SOT)、アプライドキネシオロジー(AK)、グラストン。 このように、カイロプラクティックのテクニック(A)と、カイロプラクティックのテクニックではないがカイロプラクターに用いられているテクニック(B、C)に大きく分類されます。勿論、カイロプラクティックはテクニックだけが全てではありませんし、テクニックはカイロプラクティックを臨床する上での方法論・技術でしかありません。しかし、カイロプラクティックのテクニックを十分に修得していないDC、或いは、カイロプラクティック以外のテクニックを用いるDCは、カイロプラクティックの臨床で結果を出すことは出来ません。 ビジネス・マーケティングのセミナー等では、「テクニックなんか何でもいい」と教えます。そして、モダリティと呼ばれる理学療法などを行い、サプリや腰痛ベルトなどを販売し、通院毎の収入を増やすか、患者毎の通院回数を増やすかなどの収入方法のことしか教えません。 先回の手先が不器用な人が多い事に加えて、経営セミナー等での利益第一主義の影響も、テクニックの選択に関与していることも憂慮される米国の現状です。米国カイロの歴史と潮流6松下 順彦DCVol. D.D.は、奇行が見られるようになったとは言ったが、その根拠は後で述べるとして、B.J.の心の葛藤は慮るに余り有る。  1895年9月18日、D.D.は難聴患者の背骨を手で再整列させて、患者が聴力を取り戻したことは、カイロプラクティックの偉大な発見であったが、自身の理論を共有することを躊躇ったD.D.は数年も黙り込んでいた。B.J.の記録によると、二人の間にはカイロプラクティックを家族の秘技にするのか世間に広めるのかで意見の相違が有ったようだ。しかし、命取りに近い事故の後、D.D.は出来るだけ速やかにテクニックを教授する決断をし、1903年のパーマー・スクール設立に至った。  パーマー・スクールの評判は良かったが、競合校の出現によりD.D.は多額の負債を抱えた一方で、D.D.の手法には議論と異論が足枷となった。D.D.は無資格医療行為の罪でアイオワ州から訴えられ、投獄された。その後、同じ罪状でD.D.はカリフォルニア州サンタバーバラで逮捕されたが、投獄は免れた。 1906年、D.D.は再びアイオワ州から無資格医療行為で訴えられ、有罪判決で罰金或いは105日間の入牢の刑が言い渡された。D.D.がアイオワ州で投獄された間、B.J.が学校の経営を担い、妻のマベル(Mabel)が解剖学の教鞭と学校の運営に深く関わるようになった。監獄から釈放された後、D.D.が始めた学校は経営破綻し、D.D.はロサンゼルスに移り住み、活動的な著者、講演者として人生最後の数年を過ごした。  B.J.にパーマー・スクールと関連事業を任せて、D.D.は西部へ旅立ったと言えば、恰も西部劇のハッピーエンドを想像するのだろうが、実際は如何であったか、D.D.とB.J.の父子関係には不明解な部分が残る。皮肉にカイロプラクティックの歴史(第3回)カイロプラクティックの歴史(第3回)中 垣 光 市 DCパーマーの闘い2も、D.D.は息子B.J.のユニバーサル・カイロプラクティック・カレッジ(Universal Chiropractic College)へ講演に招かれ、B.J.が運転する車に撥ねられ、その怪我が元で3カ月後に死亡したと言われている。 1913年7月、ホームカミングのパレードで、B.J.は自動車に乗ってパレードに参加していた。突然、小さな米国旗を振るD.D.が卒業生の行進を先導しようとして、パレード組織委員の在校生に止められて、口論となったところへ、B.J.の運転する車が到着し、父子の間で言葉が交わされた。その夜、D.D.はダベンポートを去り、二度と戻ることはなかった。何が起こったかは誰の話を信じるかによるが、この続きは次号のお楽しみに。

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